最近のこの4つの記事では、人類は今様々な分野で限界を迎え、袋小路に陥っているということを書いてきました(この記事を読む前にできればこの4つの記事を読んでいただけると嬉しいです)。

そこに共通して立ちはだかっているのは人間の意識、自我です。

素粒子の観測問題では、人間の観測、意識がなければ素粒子は存在しないかもしれないと言われています。そこで、問題になっているのは人間の意識です。でも、意識とは何かは誰もわかりません。

一方、若者たちは、既存の自我のあり方にNOを突きつけている。もうこんな自我のあり方はたくさんだと。

でも、自我の力は強力なので、結局自我の「自動機械」に飲まれ、「権威主義的パーソナリティ」に陥ってしまい、新しい価値を見出す意志は無くなる。

そして、その壁を破る最後の希望の光であるIT技術。それも結局は逆に自我を強固にする壁にしかならないというのが私の考えです。

この壁をぶち破るには、もう意識、自我に切り込むより他に道は残されていないのです。

物理学における意識と物質。哲学における自己と他者。この究極の2元論を統合するもの。

それが今本当に人類が追求するべき最後の救済の道です。

そして、その意識と物質、自己と他者の統合を試みているのが、ヌーソロジーなのです。


目次:アナタとワタシの狭間に
   ヌーソロジーと即自(主客一致)の世界
  「サウロン」 VS ヌーソロジー


アナタとワタシの狭間に

 まずはヌーソロジーがどんな雰囲気かわかるイメージ映像がありますので、ご覧下さい。

 

 
 

アナタとワタシの狭間に

世界が生みおとされる



このイメージビデオの終盤にこの言葉が映し出されます。これがヌーソロジーの全てを言い表していると言っても過言ではありません。

今や人類の技術は、量子コンピューターやら、AI、VR、トランスヒューマニズムなど、想像をはるかに超えるほど進歩しようとしています。

でも、それでも人間には全く究明不可能なのが素粒子(複素数)と人間の意識です。

人類に最後に残された解明すべき謎です。

であるならば……

この2つはもしかしたら同じものなのではないか。

そう考えることができないから、いつまでたっても真実がわからないのではないか 

そう考えるのが、ヌーソロジーです。

素粒子によってこの宇宙や地球、様々な物質、生物、人間1人1人が構成されているのではなく、自己と他者の意識構造によって素粒子が構成されていると考えるのです。

そう考えるならば、実は意識と物質というのは素粒子を介して奥で繋がっているのであって、本当の究極の2元論は自己と他者だということになります。

つまり、現在の科学では「素粒子」が存在の大元の最小単位とされていますが、 ヌーソロジーでの最小単位は「自己と他者」ということです。

鶏と卵。物質が先か意識が先か。

今まで、当然物質が先と思い込んでいた方は、眩暈がするような世界観の反転だと思います。そんなこと到底信じられないと思いますよね。

でも、ヌーソロジーはこの自己と他者の意識構造の一連のシステムで、この世界の存在全てを説明出来る構造を持っています。

イメージビデオの中にヌーソロジーの理論構造の図が何個かあったと思います。そのような構造を使って、人間の意識発達や歴史、数学、物理学、生物学、化学などの知識を全て説明できる可能性があるのです。


ヌーソロジーと即自(主客一致)の世界

ヌーソロジーでは、物事の最小単位は「自己と他者」だと考えます。つまり、本来自己と他者は2人で1つ、ということです。

本当は自己と他者はもともと一体であるのに、この人間世界では主体は身体に同一化し孤立してしまいます。この広い宇宙の中の端っこにある地球という惑星の、ちっぽけな島国のそのまたちっちゃな街のちっちゃな家に住んでいる私……というイメージが出来上がってしまうのです。

現在の若者たちは、既存の価値を放棄し、必死で他者の承認を求めています。

若者たちは、無意識的にですが、この孤立した自己と他者のあり方に嫌気が差していて、実は自己と他者が1つである世界を彼らなりに求めているのではないかという気もします。

ヘーゲル以来の哲学では、人間は即自(主客一致)で生まれ、対自(主客分離)となり、また「新たな即自」となる、という人間の進化の方向性についての思想が存在します。

前回の記事「 新反動主義は人類の希望の光となり得るかーVRと「多形倒錯」」で取り上げた、ドゥルーズ・ガタリの「多形倒錯」はこの「新たな即自(主客一致)」という概念の流れを汲むものです。

でも、哲学ではこの主客一致の世界がどういうものかは諸説あって明確なイメージは出されていません。ドゥルーズも晩年、人間に機械を埋め込むというような新反動主義に近いことも語っていて、明確なイメージは捉えていなかった可能性があります。

先程からお話ししているようにヌーソロジーでは、表裏一体となった自己と他者が素粒子を形作っていると考えます。

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こう考えると、素粒子の謎を解くことがそのまま、哲学界の大物研究者たちが一生かけてもわからなかったこの主客一致の明確なイメージを作ることになるのです。

人類の大きな謎、素粒子と意識、自己と他者の問題が同時に解決するという、驚くべきことが起こってくるのです。


「サウロン」VS ヌーソロジー

そうはいっても、ヌーソロジーの世界観を受け入れるのはなかなか難しいという方も多いと思います。アカデミズムの世界ではなおさらです。

これまで取り上げてきたように、人間の自我の力は強力です。

それまで信じてきたものを否定することは自分を否定するように感じ、感情的に受け入れがたいですし(認知的不協和理論)、「権威主義的パーソナリティ」の影響もあります。

ほとんどの方は、科学的な立場を離れることに抵抗がありますよね。

ヌーソロジー的に言うと、科学は自我の力そのものと言えます。

もう少し詳しく言うと、それは他者の視線から生じてくるものです。

2001年から2003年にかけて公開された映画『ロード・オブ・ザ・リング』をご覧になった方は多いと思います。J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』を実写化した3部作です。
 
私はこの映画がとっても好きなのですが、ここで出てくる悪役の冥王サウロンが自我を作る力の象徴だと思っています。科学や資本主義などもサウロンの創造物です。

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▲news.com.auさんより

サウロンは「炎に縁取られた大きな目」という形象をしています。これが他者の目なんです。

主人公のフロドは、おじさんからサウロンが作った「指輪」を譲り受けます。このサウロンの指輪が「自我」です。他者の視線によって「自我」が作られるのです。

この「指輪」は持っていると、徐々にサウロンに影響され、「指輪」を独占し、強大な権力を使って人を支配したくなります。

これも、自我の働きそのものですね。

そしてフロドは、世界を救うため、サムとともに「指輪」をサウロンのいるモルドールの火山の火口に捨てに行くという使命を負います。
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▲dTVさんより

でも、もともと欲のないホビット(小人)であるフロドでさえ、サウロンの指輪の力に影響され、指輪を手放したくなくなるのです。最後は、それまでの選択が積み重なり、予期せぬ手助けがあって、無事指輪を捨てられるのですが。

人間もいつの間にか「自我=指輪」を持たされていますが、本当はフロドのように「指輪」を捨てに行く旅をしているのです。でも、ほとんどの人は「指輪」に支配され、サウロンの配下に入ってしまいます。

『ロード・オブ・ザ・リング』の世界のように、もうこの世界も限界が近づいています。

そろそろ指輪を捨てに行かなければならない時期に来ている
のではないかと私は思っています。

そして、指輪とサウロンの正体を見破り、この力に対抗できるのがヌーソロジーなのです。



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