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ここのところずっと取り上げている、社会学者の宮台真司さんの著書『正義から享楽へ』

この本で宮台さんが、この世界の希望の光と捉えているのがVR(ヴァーチャルリアリティ)の技術です。

そして、このようなIT技術によって人類をより良い未来に導こうという考え方新反動主義(neoriactionism)と呼ぶらしいのです。

今日は、この新反動主義とは何なのか、何を目指しているのかを簡単に説明し、人類にとってどのような意味を持つのかについて考えてみたいと思います。

目次:新反動主義とは何か
   新反動主義は自動機械化を拒む
   <技術による人間解放>
   VRが格差を埋め「より良い人生」を提供する?
   ドゥルーズ・ガタリの「多形倒錯」とは


新反動主義とは何か


新反動主義を理解する前に、「新」じゃない「反動主義」っていうのはどういうものかということが気になります。

Newsweekで八田真行さん(駿河台大学専任講師)は
元々の反動主義は、素晴らしい(と多くの場合空想/妄想された)過去の「黄金時代」への逆行ということで、フランス革命を否定して王政復古したいとか、共産主義革命を否定して君主制に戻りたいとか、あるいは戦後の日本を否定して戦前の日本に戻りたいとか、その手の政治的立場のことを指すが、新反動主義が否定するのはフランス革命以来培われてきたリベラルな民主主義そのものである。
ではどこへ戻りたいかというと、これが封建主義(feudalism)なのですね。今さら封建主義と言われても具体的なイメージが湧かないと思うが、ようは弱肉強食の強者による支配(これを自然秩序(Natural order)と称する)である。
と説明しています。

つまり、反動主義とは、過去の「良かった」時代に戻りたいという政治的立場だということですね。

そして、新反動主義というのは、特に戦後国際社会で主流派であり続けたリベラル(政府による一定の介入を是とする自由主義)の否定から始まっています。

また、新反動主義は封建主義的で強者による支配を目指すと言うことですが、新反動主義のいう「強者」とは、戦国時代のような武力による「強者」ではなく、知性の強者なのです。知能によって、IT技術を駆使し、人類を導こうというのです。

最近ちょくちょく耳にするアメリカの起業家ピーター・ティールなど、シリコンバレーのIT技術者や起業家などが主に提唱しています。元リバタリアン(個人的自由と経済的自由の双方を重視する立場)が多いのも特徴の一つです。


新反動主義は自動機械化を拒む


宮台さんはこの新反動主義を、「自動機械」(詳しくは、「宮台真司氏の「自動機械」についての心理学的考察」へ)から逃れようとしているという意味で高く評価しています。

言語の自動運動に支配された機械になるより、言葉以前の欲動に身を任せたほうが人間的で善い。(「正義から享楽へ」より)
という考え方が新反動主義の根底に流れていると宮台さんは言います。

つまり、言語構造自体に組み込まれた人間を無意識にコントロールするシステムに支配されることを拒む態度が、新反動主義にはあるというのです。

前回取り上げた「権威主義的パーソナリティ」は、この新反動主義に含まれるとも言われています。

しかし、宮台さんはこの2つは全くの別物と言います。

「権威主義的パーソナリティ」はまさに自動機械化から生じる態度ですが、新反動主義はこの自動機械化を拒む態度なのです。

自動機械化を拒み「言語以前の欲動に身を任せる」……言うのは簡単ですが、そんなこと現実の社会でやったら大変なことになります。一番わかりやすいのは、性欲でしょうか。欲望のまま行動したら、刑務所行き確定です。

でも、それを実際に可能にするのが、IT技術、特にVR(ヴァーチャルリアリティ)だと新反動主義は考えるのです。


<技術による人間解放>


これを宮台さんは<技術による人間解放>と言います。

彼は、SF作家バラードの小説『ヴァーミリオン・サンズ』の中のシーンを取り上げて、技術が何を可能にするのかを述べています。
宝石を埋め込まれた昆虫たちが歩き翔び、至る所に不思議なノイズ(音楽?)を奏でる音響彫刻が立ち並び、部屋はヒトの感情に従って色どころか形を変え、或る者は飛行機械に乗って雲の彫刻をし、或る者は実在するか否かわからない女を求めて徘徊するーむしろ多形倒錯的です。 

     そこには技術が未熟な段階ではヒトは言語を用いてちゃんと考えて社会を運営
     したり人生を運営しなければならないが、技術が高度に発達した段階ではもはや
     <安心と安全>を意図する必要さえ免除
され、他人様に迷惑をかけずに
     <混沌と眩暈>を満喫できるというビジョンがあります。


このような感覚的感情的に「何でもあり」の生活が、VR(ヴァーチャルリアリティ)によって可能になると言うのです。

上記の「多形倒錯的」というのは元はフロイトの専門用語で、性的嗜好が一定していないことを指しています。

でも、宮台さんはおそらくフロイトではなく、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科分析医のフェリックス・ガタリのスキゾ(統合失調症)分析から、この「多形倒錯」という概念をとってきていると思われます。

ドゥルーズ・ガタリは、人間の進化の方向として、統合失調症的な意識状態をあげ、それを「多形倒錯的」と表現しました。

この統合失調症的な意識というのは、「〜すべき」という超自我を排除して境界を壊していくことによって生じます。主体が「自分は自分である」という自己同一性を失っていくスキゾ化の状態のことです。

宮台さんはそのような意識状態がVRによって得られると考えているのではないかと思います。


VRが格差を埋め「より良い人生」を提供する?


前記事「価値を見失った若者たち」では、日本の子供の教育や経済的格差が広がっていること、そして自己評価が非常に低いことをお話ししました。

このままの社会や政治の体制では、もはやこの格差は解消できず、みんなが中流階級にあって自己評価を高くして生きるというのは不可能でしょう。

そこで、宮台さんが新たな希望としてあげるのが、VRなんですね。

ドゥルーズ・ガタリの言うように、「多形倒錯」は人間の進化の方向であるし、それでみんなが好きなように「なんでもあり」の生活を楽しみながら人生を全うできるなら、一番良いということなのでしょう。

宮台さんは、差別主義者は差別主義者だけの拡張現実で好きなだけ差別をし、他の人々と交わらないようにすればいいと言います。

でも、それってどうなんでしょう。私はかなり疑問です。


ドゥルーズ・ガタリの多形倒錯とは


ドゥルーズ・ガタリの言う「多形倒錯」って本当にVRで体験可能なものなんでしょうか

「何でもあり」の世界で、本当に人間は人間らしく生きられるのでしょうか。

これは人間の人格的成長とは何かという問題に関係してきます。

宮台さんは、自動機械から逃れることをとても重要視しています。でも、差別主義者は前回お話しした「権威主義的パーソナリティ」つまり自動機械から生じている場合が多いはずです。それなのに、「好きなだけ差別していい」というのはどういうこと?となります。

言語以前の欲動に身を任せれば、「差別してもいい」ということでしょうか。

私はそうは思いません。

自動機械を意識化し、それをコントロールできている人が「多形倒錯的」になるのと、自動機械を意識化できずに自動機械に支配されたままで「多形倒錯的」になるのとは、月とスッポンほどの違いがあると思うからです。

人間はその性質上「見たい現実しか見ない」傾向があります。自分に都合の悪い事実を否定しがち。

でも、それでも現実社会で生活をしていれば、何か自分が凝り固まった信念を持っていたり、ネガティブな感情をためていたりすれば、必ず上手くいかないことが生じて反省を促されます。そこに変化、成長のチャンスがあるのです。

でも、VR空間で似たような人とばかり接して、何でもありの生活をしているならば、ただでさえ「見たいものしか見ない」のだから、そうしたチャンスは永遠に訪れないでしょう。

永遠に自動機械のままです。

ドゥルーズ・ガタリの多形倒錯とは、自動機械=自我を超えたあとに可能になる意識状態であると私は思っています。

つまり、「自我を超えた意識ってあるの?」でもお話しした、自己実現以上の意識レベルです。

そう考えるならば、VR空間で生きるのは進化の妨げ以外の何物でもありません。

ドゥルーズ・ガタリの多形倒錯的な意識に到達するには、自動機械を意識化しコントロールするために現実世界での経験が必要不可欠なのです。

つまり、VR、新反動主義は人類の希望の光にはなり得ない。

私はそう思っています。

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