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前回は社会学者の宮台真司さんの著書『正義から享楽へ』のお話をしました。

今日はその続きで、この本の出版を記念して今年2月に行われた宮台さんと作家/アイドル評論家・中森明夫さんとのトークショーの記事(Real Soundさんより)について書きたいと思います。

前回の記事でも出ていた「自動機械」という言葉が、この対談でも頻繁に登場します。

「自動機械」とは、言語構造によって無意識的に規定される人間の行動様式のシステムです。 

宮台さんはこの「自動機械」を当然社会学的な見地から使っているのですが、 今日はこれを心理学的な立場から考えてみたいと思います。

目次:「いい自動機械化」と「悪い自動機械化」
   「悪い自動機械化」の増殖
   「自動機械」の心理学的構造
   他者の軸で生きるか、自分の軸で生きるか
   

「いい自動機械化」と「悪い自動機械化」

前記事でもお話ししたように宮台さんは、人間が「自動機械化」することを徹底的に批判しています。でも、「いい自動機械化」もあると言うんです。

宮台さんはこの対談記事の後半で以下のように述べています。
意識も言語的に自動機械化しがちです。

自動機械化した意識は自動機械化した無意識を生む


だからラカンは無意識が言語的に構造化されていると言った。ならば意識に対しても再帰的反応の高次化を重ねるべきです。

これを僕は「抽象水準を上げる」と表現してきた。

楽器演奏や武道実践
を考えると分かりやすい。
但し、練習不足で自動機械化が不十分だからと“意識”を使って前に進む営みも、自動機械です。

また、負担免除で余った“意識”による自動機械の観察もルーチン化=自動機械化します。

ならばそこで余った“意識”を「自動機械を観察する自動機械の観察」に向ける。

簡単に言えば、自動機械に支配され無意識に話したり行動してしまうことが「悪い自動機械化」。

その無意識の部分を観察し、それを繰り返すことでその観察までも自動機械化し、そこで生じた余力をさらに意識に向け意識的に行動するのが「いい自動機械化」です。


悪い自動機械化の増殖

宮台さんはこの「悪い自動機械」=「低レベルの自動機械」化した人間が80年代を境に増殖しているといいます。それはどうしてなのでしょうか。
自己像や人間関係のホメオスタシスを支える<妄想>に固執するから、<妄想>が事実に反すると指摘されても、何処吹く風で<妄想>を吹聴する。

そんな神経症的コミュ障クラスタが増殖中です。

日本だけじゃない。英国の「ポスト・トゥルス」も米国の「オルタナティブ・ファクト」も、<妄想>ホメオスタシスです。

この「妄想」というのは、前記事「なぜインスタが若者にウケているのか」で取り上げた精神科医の斉藤環さんが言っている「キャラ」と同じものです。「承認欲求」を満たすためのコミュニケーションを維持するために「キャラ」に固執するということですね。

そして、「妄想」に固執する人が増えた原因として、社会と親子関係の変質をあげています。
要は<妄想>共有への信頼が社会から消え、家族が共同体に埋め込まれなくなった結果、母の欲望対象(ファルス)が自分ではないと知って無力感に苛まれた子が、父の機能を媒介に社会に適応するための<妄想>をインストールされるかわりに、歪んだ家族に適応するための社会的適応に役立たない<妄想>をインストールされるようになった。

これは「ファルス」「父の機能」など精神分析用語があって難しいですが、簡単に言えば、次のようなことです。

この「<妄想>共有への信頼」の<妄想>とは、先ほどの「キャラ」とは、同じ<妄想>でも違う意味です。つまり、共通の善悪の概念、「超自我」のようなものです。

昔は社会に「こうあるべき」という共通の理想=<妄想>がありました。それを親は取り込んでいて、その親の「妄想」を子供も取り込むことで社会に適応することができました。

でも、現在はその社会共通の理想=<妄想>が消え、各家庭でそれぞれの親の個人的な妄想が子供に受け継がれるようになったということです。

今流行りの毒親、アダルトチルドレンなんかはその典型です(関連記事「自分がわからなくなるのはなぜ?)。

親の個人的な「妄想」ですので、当然子供はそれを取り込んでも社会に適応できません。宮台さんは、このような「妄想」の取り込みがいろいろな場で行われているのが、現在の社会だといいます。自分の入った集団での望まれる自己イメージを作ったり、その集団の価値観をそのまま取り込んでしまうのです。

昔はその妄想が共通のものであったために、皆が理想を共有し、一体感を感じ、社会に適応することができました。

でも、今はその「妄想」が分裂し、個人的なものになってしまいました。そうすると、他者の「妄想」を取り込むという生き方では社会に適応できなくなってしまうのです。


「自動機械」の心理学的構造

私は「人間の性格は4つの要素から形成されている」とお話ししてきました。

このうち、宮台さんの「自動機械」に関係するのは「乳幼児期の親子関係からできるもの(エニアグラム)」「その後の経験から形成されるもの」です。

親から取り込まれた「妄想」のうち、より表面的なのは、小学校以降に形成される自分や社会に対する信念やイメージです。

通常「自分は生きている価値がない」や「私は誰からも愛されるはずがない」「どうせ失敗する」などのネガティブなものが多いですが、逆にポジティブな「自分は何をやっても上手くいく」「社会は自分を認めないはずがない」などの信念もあります。

親から取り込むものではありませんが、自分の所属した集団で望まれる自己イメージを作ったり、その価値観を取り込むこともここに入るでしょう。これらはまさに無意識に自分を動かす「自動機械」です。

そして、その奥にさらに幼い乳幼児期に形成されるものがあります。これがエニアグラムタイプです。

宮台さんは自動機械は言語の構造によって規定されると言っていますが、エニアグラムは言語獲得以前の親子関係にも関連しているので、詳しくは人間の存在様式、つまり自己と他者の構造に規定されている無意識構造です。

つまり、「自動機械」には2つのレベルがあるんです。

この「自動機械」の支配から逃れるには、宮台さんの言うように「観察」しかないんです。まず、より表層にある歪んだ信念を観察し、それを意識化する。そして、「歪んだ信念」に流されないように意識して自分を良い方向に持って行く行動をする。それを繰り返していくと、それが自動機械化し、楽にできるようになるのです。

それを続けていけば、エニアグラムの力にも意識を向けることができます。「自動機械を観察する自動機械の観察」です。

これが、心理学で言う「自我同一性」が課題になる第2次性徴期に始まる意識の機能(詳しくは「心理学における精神的健康」をご覧ください)なんです。

前回の記事でもお話ししたように、宮台さん本人もエニアグラムタイプ1の「正義」の力に縛られていることに気づき、そこから解放されようとして「享楽」=タイプ7の方向に進みました。

つまり、表層的な「信念」と同様に、エニアグラムタイプの欲求や不安を観察して意識化し、タイプの力に流されずに、自分にとって良い方向の行動を繰り返す。それによって生じた余剰の力で、タイプの力をコントロールして個性や才能として昇華していき、タイプの支配から解放されることを目指すのです。

このような一連の流れが宮台さんの言う「抽象度の高い」「いい自動機械化」ですね。


他者の軸で生きるか、自分の軸で生きるか

「悪い自動機械化」が増えているということでもわかるように、第2次性徴期の13〜14歳になればみんな自然に「いい自動機械化」ができるとは限りません。

「インスタ」の記事
にも書いたように、他者の承認を第一に考えると「自分がどう感じるか、考えるか」は置き去りになります。その承認を得るための「キャラ」から抜け出せず、本当の自分と向き合うことはできません。

この自動機械は、非承認を気にする弱さゆえに、ノイズ耐性が低くて「使えない」。SNS的右往左往に見られる低レベル自動機械の、低ノイズ耐性ゆえの臆病さが、主体を抹消した表層から先に進むのを妨げ、低レベル自動機械からの離脱を不可能にします。そんな営みが紡ぎ出す自己像や人間関係は、入替可能性ゆえに尊厳を欠きます。

つまり、他者の目を気にして、他者の妄想を取り込んでいては、「いい自動機械化」はできないのです。

先ほど、社会共通の理想が消えたことで、他者の妄想を取り込む生き方が通用しなくなったと言いましたが、問題はそれだけではないのです。それによって、より一層、他者を軸にして生きるか、自分を軸にして生きるかで、その人の人生が変わってくる時代になったということなんです。

他者を軸として生きれば「悪い自動機械化」からは逃れられません。

逆に、自分を軸にするところから始まるのが「いい自動機械化」なのです。

人間は皆、人間として生きている以上、自動機械の影響を受けます。でも、それに気づいて、なんとかそこから解放されようと努力して生きるというのが、私は人間の目指すべき方向なんじゃないかと思っています。

読んでいただいてありがとうございました。

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